渋沢栄一が新1万円札に!3分でわかる渋沢栄一と「株」の関係

こんにちは、秋ナスです。

渋沢栄一が新札の顔になるということで、話題沸騰中ですね!

渋沢栄一といえば、日本に株式市場の制度をもたらした超重要人物です。東京証券取引所にも渋沢栄一のパネルがあるくらい、大事な人です。

渋沢栄一がいたからこそ、株式投資や株トレードなんていう概念が、日本にも導入されたのだと言えます。

そんな渋沢栄一が2024年の紙幣改訂で、新1万円札の顔になるとのこと。

いったいどんな人物だったのか、株の話と絡めながら、簡単に見ていきたいと思います!

渋沢栄一の生い立ち

まずは渋沢栄一の簡単な生い立ちから。

生まれは

  • 1840年(天保11年)3月16日

で、

  • 埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)

の出身です。

渋沢栄一記念館も、この埼玉県深谷市にあります。

ちなみに、お亡くなりは92歳です。

お父さんが学問好きだったこともあり、『論語』などの本を読まされるなど、しっかりした教養があったようです。

 

渋沢栄一は尊王攘夷思想(天皇を敬って、外国の侵略を撃退しようとする思想)を持っていて、23歳のときには

  • 高崎城の占領
  • 横浜の外国人襲撃

なども計画したそうです。

さすがに行動力バツグンですね!(結局は、不発に終わったみたいですが…)

しかしこれがきっかけで役人に追われる身となってしまい、一橋家という家に家中として仕えさせてもらうことになります。この一橋家の当主は、のちの徳川家第15代将軍の「徳川慶喜」です。

そして、徳川慶喜の弟、昭武(あきたけ)についてフランスへ留学することになります。

このフランス留学がきっかけで、「株式」という概念に出会うことになったのです。



渋沢栄一、株式会社に出会う

渋沢栄一は、フランスで「株式会社」という制度、つまり、

  • 多くの人から資本を集めて事業を運営する

という制度に出会います。

株式を買うことで、事業を運営する当事者でなかったとしても、その事業に参加できる仕組みが、フランスにはあったわけです。

財閥による “家族経営” よりも、誰でも参加できる株式会社の制度こそ、日本に必要な経済の仕組みだと悟ったんですね。

この考えこそ、まさに日本における「株」の始まりだったとも言えるでしょう。

それから、渋沢栄一は日本での「株式市場」という制度を整えるために、「株式取引所」の設立を目指すことになります。



渋沢栄一が尽力した株式取引所の設立

渋沢栄一は帰国後、大蔵省で働いていたのですが、のちに第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の頭取に就任し、実業家への道を歩み始めます。

第一国立銀行は、渋沢栄一が設立に携わった、日本で最初の株式会社です。

それから、株の制度を定着させるため、「東京株式取引所」の構想をだんだんと現実化していきます。

そして1877年に取引所の設立を政府に出願し、1年後の1878年にはその許可がおりたのです。

こうして、「東京株式取引所」が誕生し、これがのちの「東京証券取引所」となります。

東証にある渋沢栄一のパネル(一番右の人)

 

最初の株式取引所の設立から約140年後にあたる今、僕らは「東証」を通じて株トレードしているわけですね。

実業家としての渋沢栄一

渋沢栄一はその後も、500以上の銀行や企業の設立に携わり、実業家として名を残すことになります。

「日本資本主義の父」と呼ばれるのは、そのためですね。

また、一橋大学や日本女子大学の設立に関わるなど、教育の分野にもかなり力を注いでいたようです(同じく新札の顔になる津田梅子も、津田塾大学の創始者ですね)。

経済界だけでなく、さまざまな分野での活動で社会貢献していたんですね。

まとめ

今回は、新たに1万円札の顔になることが発表された「渋沢栄一」について、簡単にご紹介しました。

今の東京証券取引所の土台を作ったのが、渋沢栄一です。

日本に株式制度をもたらし、実業家としてたくさん活躍した人物。まさに、新札の顔にふさわしいですね!

渋沢栄一が気になる方は、ぜひ渋沢栄一記念館や、東京証券取引所の見学にも行ってみてください^^

それでは、最後までお読みいただき、ありがとうございました。